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労働から解放されて1ヶ月 [セミリタイア]

労働から解放されて1ヶ月経ちました。
あらもう1ヶ月?
この1ヶ月を早いと感じる一方で、元職場に通っていた日々がはるか昔のことに思えます。

特に何をするでもないですが、今のところ全然退屈はしていません。
イチゴを植えたり、生ごみ堆肥づくりに挑戦してみたり、100円グッズを駆使して机周りを快適にしてみたり、米粉でスコーンを作ってみたり、YouTube見まくったり。
あー、幸せだなあ、としみじみと感じます。
そういう時は口に出して言います。
そしてついでに慈悲の瞑想。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」

日々の生活の中で幸せを感じることがとても増えました。
部屋に陽の光が差しているだけで幸せです。
ストーブでぬくぬくできるだけで幸せです。
ご飯が美味しく食べられることがとても幸せです。

10年くらい前に喫茶店のカウンター席でたまたま隣になった男性の言葉をよく思い出します。
私より少し若いくらいのお兄さんでした。
友達とコーヒーを飲みながら不幸だ不幸だと言い合っていたら、「お二人は幸せの基準が高いんですね」というようなことを言われた。
その男性は登山が趣味だそうで、暖かいところで眠れるだけで幸せ、ご飯が食べられるだけで幸せ、と幸せの基準がとても低いのだと言う。
その時の私は「そういう人もいるんだなぁ、いいなぁ。私もなれるものならそうなりたいけど、幸せを感じられないものはしょうがないじゃない。感じようとして感じられるものではないんだし」と思っていた。

そして今、あの時のお兄さんからはこんな風に見えていたのだろうな、と思いながら当時の不幸な自分を思い出す。
自分から不幸の壺に顔をつっこんでいるようなものだったなぁ。
でも一方で、この歳になったからこそ、労働から解放されたからこそ、幸せの感受性が上がったことも確かだと思う。
あの頃はあのようにあるしかなかった。
おかげで今はとても幸せ。
ありがとう、あの頃の不幸な私よ。
大丈夫だ、君はきっと幸せになる。





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冷凍庫から解放された日 [セミリタイア]

労働から解放されて約1週間。
たっぷりの時間を満喫しています。

ホームセンターを隅から隅まで眺めて歩いたり、そのうち作ろうと保存しておいたレシピを試したり、スーパーで買った安い切り花を生けてみたり、ハーブの鉢植えを作ったり、YouTube見たり、アニメ見たり、本読んだり。

今のところ退屈することはありません。
20代の頃、東京でアパート暮らしをしながら10ヶ月ほどプー太郎生活をしたことがありますが、その時も全然飽きなかった。
東京には色々あるからとかそういうんじゃない。
だってやってたことは今と変わらない。
図書館行って本借りてパン屋寄ってサービスのコーヒーをもらって飲みながら帰るとか。
世の中には仕事をしないといられない人もいるみたいだけど、幸いにも私にはプー太郎の才があるようだ。
まあ、数年経ったらどうなるか分かりませんけどね。

仕事を辞めると決めて以降、爆上がりしていた私の幸福度ですが、一点のシミとして幸福度を押し下げているものがありました。
それは冷凍庫の音。

私が書斎として使っている部屋には食材を保存するための冷凍庫が鎮座していた。
広い部屋なので空間的に邪魔ということはないのだけれど、いかんせんコンプレッサーの音がうるさい。
一年ほど前からあまり音楽を聞かなくなり、自然音あるいは無音を好むようになっていた私にとって、冷凍庫の発する機械音はものすごく不快でかなりのストレスを感じていた。

場所の移動を願い出たが受け入れられず、音が静かになることを期待して新しく買い替えたもののうるさいことに変わりはなくむしろ余計耳障りになったような気さえした。
せっかく日当たりの良い明るい部屋なのに、冷凍庫があるせいで私はその部屋を使えなくなっていた。
なんで人間様が冷凍庫に部屋を追い出されなければならないのか。
しかし私は実家に居候の身。
文句があるなら家を出て自分の城を持つしかないが、そこまでの経済的余裕は今の私にはない。
はて、どうしたものか。。。

そんなとき奇跡は起きた。
一度却下された冷凍庫の引越しが認められたのだ。
それが決まっただけで、冷凍庫はまだそこにあるにも関わらず私の幸福度は最高値を大きく更新した。
そして今日、ついに冷凍庫の引越しが行われた。
私はもうランダムに発生する冷凍庫の音に怯えることはないのだ。
なんという幸福だろう!

冷凍庫が鎮座して私のストレス発生源となっていた南東の角は、今はお花と観葉植物とアレクサによって癒しを与えるパワースポットとなった。
幸せ。すごい幸せ。
部屋に入るたびに「あー、幸せだぁ。ありがとうございますありがとうございます」と呟いている。

どうにもならないものと諦めていたけれど、最終的に私が望む最良の結果となった。
願いって叶うんだなぁ。





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労働から解放された日 [セミリタイア]

昨日が最終出勤日でした。
おめでとう、私!
よくやった、私!
自分で自分に拍手した。

もう通勤時間帯の車運転でストレスを溜めなくていいんです。
やることないのに机に座ってなくてもいいんです。

開 放 感 ! !

そして今日、最後のお給料が振り込まれた。
ありがとうございます。
本当にありがとうございます。
実質労働量の割には破格のお給料をいただいていたと自覚しています。
おかげで私は自由になれました。
元の職場には心から感謝しています。

定職を失うことへの不安が出てくるんじゃないかと思っていましたが、今のところ全くそういうのはありません。
いや、ゼロかと言われたらもしかすると3%くらいはあるかもしれないけど、せいぜいそんなもんです。
私一人が慎ましく暮らしていく程度なら何とかなる目処は立っているし、必要になればまた働けばいいんです。

昨日最後の出勤中に、人間は本来もっとゆったりした生き物だったんじゃないか、とふと思いました。




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奇しくも実現、若隠居 [セミリタイア]

このブログのタイトルは「若隠居への道」というもので、私が27歳の時に始めました。
途中、年単位で更新しないことはあっても削除することなく存続しています。
SNSと違って「他者から見られていないのが当たり前」だったからこその長寿でしょう。

さて、わたくし現在44歳でございますが、14年以上続けた今の仕事を2月で退職することになりました。
もはやフルタイムで働く気はありません。
気が向けば週2,3日ほど働くことはあるかもしれませんが、いわゆるセミリタイアってやつです。
長い老後の始まりです。

もはや若者とは言えない立派な中年ですが、かといってご隠居と呼ぶにはまだちと年季が足りない。
若隠居、奇しくも実現したと言っていいのではないでしょうか。
明確に目指していたわけではないのですが、いつのまにかそうなっていました。
なんだか不思議な気持ちです。

今後はそんなセミリタイア生活についても綴っていこうと思います。
時間はたっぷりあるからね。




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DOGUと横尾忠則寒山百得 [美術館/博物館]

暑くもなく寒くもない爽やかな秋の日に東京国立博物館へ行ってきました。

目的は土偶なので一般チケットだけでもよかったのですが、特別展チケットとあまり金額に差がないので「横尾忠則寒山百得展」チケットを買いました。
同じく開催中の「京都・南山城の仏像」と迷ったけど、本館特別5室って展示が少なくてすぐ観終わっちゃうのよね。

まずは東洋館地下のミュージアムシアターへ。
入り口に土偶のレプリカが置いてあって自由に触ることができます。
こういう体験型の展示ってすごくいいですね。
模様を撫でたり、重さを感じたり。
重量も再現してあるそうですが、結構どっしりしています。

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「DOGU 美のはじまり」
国宝土偶5体をVR映像で詳しく説明してくれます。
一万年以上続いた長い縄文時代の中で、土偶の出土数の変遷を日本地図で見られるのが面白かった。
あとアシスタントとして出てくる遮光器土偶のシャコちゃん可愛い。

縄文時代と土偶について学んだあとは実物を見に平成館考古室へ。

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どれもユニークな造形です。
外国からのお客さんが展示の説明文を読みながらジョーモン、ジョーモンと言っているのがなんだか面白かった。
古墳もそのままKofunなのですね。

爽やかな日陰のテラス席でしばし休憩して、続いては「横尾忠則寒山百得展」へ。
横尾忠則さんは聞いたことある、程度だったのですが、楽しくて刺激的な展示でとても楽しめました。二周しました。
寒山拾得図は元々好きで、どれも見るたびになんだかケムに巻かれるような化かされるような不思議な気持ちになる。
横尾さんの寒山拾得はカラフルで自由。
私もこんな色使いで絵を描いてみたいと思いました。

表慶館は建物自体が素敵で、アートとの融合でなんとも心躍る空間になっていました。
色々写真を載せておきます。

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私は流し見していたのだけれど、男性が2人続けてこの絵を興味深そうに眺めて写真を撮っていた。
改めて見てみたらなるほど男性が好きそうと納得。
まあ人それぞれだと思いますが。

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特に混んでいるということもなく、ゆったり見られてよかったです。

上野公園では「ウエノデ.パンダ中秋節」というイベントをやっていて、美味しそうなものがたくさん売られていました。
私が買ったのは以下の通り。
・パクチー水餃子(すっごい美味しかった!)
・ラムサイコロステーキ(ノーコメント)
・フリフリポテト バターしょうゆ味(安定のおいしさ)
・エッグタルト(初めて食べた。めちゃくちゃ美味しかった。3つはいける)
・月餅(まだ食べてない)

ステージではバブリーなバンドが愉快なライブをやっていてファンも一緒に踊って楽しそうだった。

お祭りの賑やかさと博物館のゆったりとした時間と、両方楽しめた素晴らしい一日でした。




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未成年 [本]

「未成年」 ドストエフスキー





工藤精一郎訳の新潮文庫版で読みました。
最後についている解説が佐藤優なのは思いがけなかったけど、案の定「こんなに神様神様いう奴は無神論者だ」とディスってて笑った。

さて、感想というほどの感想もなく、特別面白くもなくつまらなくもなく。
登場人物を把握して物語に入っていくのに少し難儀するけれど、物語の枠をおおむね把握できれば「えーどうなるのー」と野次馬根性で楽しめます。
ロシア人の名前がわかりにくいのと、主人公も他の登場人物もぐだぐだねちねちと鬱陶しいのはドストエフスキー作品を読むうえでの大前提なので今更言ってもしょうがない。むしろそれが醍醐味だったりする。

一言で言ってしまえば人間関係のドロドロです。
何かドラマチックな出来事が起きたりまさかの大どんでん返しがあったりするわけではありません。
それでもなんとなく面白いのが良い小説というものです、と誰かが言っていた気がする。

主人公の青臭くて短絡的ですぐ興奮する浅はかさと異常な自意識の高さにイラっとして全然共感できないけど、なんといっても「未成年」ですからね。それをこそ描いているのだから仕方ない。

この物語には重要な手紙が二通登場するのですが、最後まで尾を引く方の一通は物語の序盤にさらっと出てくるだけなので、読みながらずっと「この手紙ってどういう経緯でなんで主人公が持ってるんだ??」と思っていました。
読み終えてからそれについて書かれているところを探したけど見つけるのに苦労した。
こういう大事なことこそもっとわかりやすくねちねちと書いてよ、ドスちん!
そしてその記述を読んでもやっぱりこんな大事な手紙が主人公のような青臭い小僧に託された理由がわからん。
作者の都合以外。

私の中にこれといって強い印象を残す作品ではなかったけれど、思ったよりもすんなりと読了できたのはよかったです。
これでドストエフスキーの五大長編制覇!!
次は途中で投げ出してしまった「死の家の記録」に再挑戦しようかしら。




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古代メキシコ展 [美術館/博物館]

東京国立博物館で開催中の「古代メキシコ」展に行ってきました。

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入場制限はありませんでしたがなかなかの人混みです。
夏休みだけどお子さんは思ったよりもいなかった。

中南米の文明ってちょっと不気味で怖いけど何とも言えない妖しい魅力がある。
じーっと見ているとその世界観に取り込まれてしまいそう。
展示品に合わせた背面パネルなど、現地に行った気分になれる空間でした。

全品写真撮影OKの太っ腹。
いくつか写真を載せておきます。

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こういう呪いが「百鬼夜行抄」に出てきた気がする…

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キラッキラ

いつか現地に行ってみたいけど、なんか妙な影響受けそうでちょっと怖い。



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破船 [本]

「破船」 吉村昭



この本のことを初めて知ったのは読売新聞の紹介記事だった。
カミュのペストとかと一緒にコロナ禍で読むべき本、みたいな感じで紹介されていたと記憶する。
話も不気味だけど何より表紙の絵が怖い、と強く印象に残っていた。

村人たちが食うや食わずの生活をしている僻地の貧しい漁村では、貴重な荷を積んだ船が座礁するのを「お船様」と呼んでその到来を待ち望んでいた。
しかし今度のお船様が運んできたのは恵みではなく疫病だった!

という話なんだけど、この疫病船がやってくるのって本当に最後の方なんだよね。
表紙からして不気味で、座礁船を「お船様」と呼ぶのも不気味で、常に死が近くにある寒村の生活もどことなく緊張感と不穏さを孕んでいて、何が起こるのか、どんな破局が訪れるのかと読み進めると、死体だけを積んだ船が流れ着く。死人はみんな赤い着物を身につけていた。そして船内には赤い猿の面。
だめー!それ絶対やばいやつーー!

お船様が実は疫病神だった、というのはほとんどオチみたいなものなので、知らずに読んだ方がハラハラして面白かったんじゃないかと思う。
でもこの情報がなかったら読まなかっただろうし。。
難しいね。




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WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方 [本]

「WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方 」
ジル・ボルト・テイラー



突然の脳出血により左脳の機能が停止した脳科学者が、自分の脳内で起こったことを内側から観察することで、私たちの脳内には「4つのキャラ」がいるということに気づきます。
そのキャラたちがチームとして協力し合えば心穏やかな人生が手に入る、というのが本書の内容です。

重度の脳出血に見舞われて左脳の機能が停止した著者は、生命の危機的状況であったにも関わらず、心安らかな幸福感と宇宙との一体感という涅槃のような境地にいたと言います。
自他の境界がなく、過去も未来もなく、言葉もない「今この瞬間」だけの世界。
やがて左脳の機能が少しずつ回復し、他者とのコミュニケーションや順序立てて物事を処理する能力を取り戻していきます。

私たちの脳内には、考える左脳、感じる左脳、感じる右脳、考える右脳という「4つのキャラ」が常に存在すると言います。
そして私たちはいつでも自分がどのキャラでいるかを選択できるのだと。

そのためには、まず自分の脳内にある4つのキャラを知る必要があります。
まとめるのは難しいのですが、ものすごく無理矢理まとめるとこんな感じ。

キャラ1<考える左脳>
言語、過去/未来、ルール、分析、細部、差異

キャラ2<感じる左脳>
恐怖、心配、不安、猜疑、優劣、正誤、利己

キャラ3<感じる右脳>
遊び、創造、開放、集団、信頼、今だけ

キャラ4<考える右脳>
大局、寛容、柔軟、思いやり、流れ

これだけだとよくわからないと思うので、詳しく知りたい場合は是非本書を読んでみてください。
作者は自分の脳内の4つのキャラに名前をつけて、それぞれの声を聞く「脳内会議」によって、脳の連携回路を強化することを勧めています。

内容の説明はこれくらいにして、読んで思ったことなどを。

まず、心安らかな幸福感と宇宙との一体感というまさに涅槃の境地が、そもそも私たちの脳内にすでに機能として存在しているということがものすごい希望に思えた。
ただ残念なことに、どうしたらそこにアクセスできるのかがわからない。
人為的に脳出血を起こすのはあまりにリスキーだ。
私としては仏教の「慈悲の瞑想」がこの回路を強化するものとして有効なのではないかと考えている。
セルフ・コンパッション」でも推奨されているし。

4つのキャラの中で一番わかりやすくほとんどの時間を支配しているのが<キャラ1>だと思う。
今こうしてブログを書いているのもそうだし、日々のルーティンやToDoリストをこなすのも、明日の予定を立てるのも、座りっぱなしじゃなくて少し歩いた方がいいと考えるのも<キャラ1>だ。
私の中の<キャラ1>は次々と仕事をこなすバリキャリ。

<キャラ2>もよく顔を出す。
自分と誰かを比較して落ち込んだり嫉妬したり、過去を思い出してくよくよしたり、未来に対して悲観的になったり、孤独を感じるときはこの<キャラ2>が叫んでいる。
寂しがり屋の傷付いた子供。

<キャラ3>はあまりピンとはこないのだけれど、誰かと一緒に夢中になっておしゃべりしていたり、お絵描きに没頭していたりするのはこのキャラなのだと思う。
もっと出て来てくれてもいいのに。

<キャラ4>はほとんど存在を感じられない。誰かに対して思いやりの気持ちを抱く時とかがそうなのかなぁ。私もこのキャラの領域である一体感と幸福感を体験してみたいものだ。

作者はどのキャラでいるかを私たちはいつでも選べるのだ、というけれど、ほとんど認識できていないキャラ3やキャラ4に切り替えるのって難しい。
まずは自分の脳内で今どのキャラが優勢になっているのかを認識するところからなのかもしれない。

どのキャラの声も無視したり排除したりせず、すべてのキャラの声を聞いて合意することが作者の言う「脳内会議」らしい。
私の脳内は<キャラ1>と<キャラ2>の声でほとんど満ちているのだけれど、いずれは右脳の<キャラ3><キャラ4>とも協力してWHOLE BRAINで心穏やかに生きていけるようになりたいものです。




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セルフ・コンパッション [本]

「セルフ・コンパッション[新訳版]」 クリスティン・ネフ



以前から気になっていたのだけれど、お値段がそれなり(kindle版で3,366円)なので気軽に手を出せないでいた本。
GW中に久々に辛いウツモードが発動して色々と対策を探していたところこの本の紹介を見て、ついに買って読んでみることにした。
結論から言うと、読んでよかったです。
全体的に冗長なのと、横書きが読みにくいという難点はあるものの、セルフ・コンパッションという概念と、それがいかに人生を楽に豊かにするために必要なものか、ということがよくわかった。

セルフ・コンパッションとは直訳すると「自分への思いやり」。
その核となる構成要素は以下の三つです。

・自分に優しくすること
・共通の人間性を認識すること
・マインドフルネス

これだけ見てもよくわからんですね。

例えば何か失敗をして落ち込んでいるとします。
私はまさにそのタイプなのですが、自分を責めて自己嫌悪に陥ります。
なんであんな失敗をしたんだ、もっと上手くやれたんじゃないか、ああすべきだったんじゃないか、自分はなんてダメなんだ、とくよくよして自分を責め立てます。
ますます嫌な気持ちになります。
何日も引きずります。

しかし、自分を責めることは百害あって一利なしだそうです。
ではどうするか。

まず、「自分に優しくすること」。
失敗して落ち込んでいる友達を、あなたは「なぜもっとうまくやらなかったのか、なんてダメな奴だ」と罵って責任を追及しますか?
しませんよね。
友達を励ますように、思いやりの気持ちをもって自分に接するのです。

次に「共通の人間性を認識すること」。
つまり、人間誰だって失敗するという当たり前のことを思い出すということです。
常に正解を選び続ける完璧な自分なんてあり得ないのです。

そして「マインドフルネス」。
今ここに集中してそれを受け入れること。
自分が失敗して落ち込んでいるという現実をそのまま受け止めて、良いとか悪いとか判断を下さない。何とかしようとしない。
特に思考ではなく自分が感じている苦痛を身体感覚として感じること。

以上を踏まえて、失敗して落ち込んでいる自分に対してセルフ・コンパッションを実践するとしたら、私だったらこんな感じにする。

まず、落ち込んでいる気持ち、恥ずかしい気持ち、後悔する気持ちなど、自分が今感じていることを、判断や評価を交えずに受け止める。
頭の中の思考よりも「胸が締め付けられる感じ」とか「胃がムカムカする感じ」といったように、身体感覚に注目する方がありのままを受け止めやすい。

続いて、そういった苦痛を感じている自分に対して思いやりの気持ちをもって声を掛ける。
例えばこんな感じ。

「辛いよね。わかるよ。でもそんなに責めなくてもいいんだよ。絶対に100%間違えない完璧な人間なんていないんだから。とはいえ、責める気持ちって勝手に沸いてくるよね。消そうと思って消えるもんじゃないよね。わかる。すごいわかる。だから責めちゃう自分を責める必要もないんだよ。だって自分にコントロールできることじゃないんだから」

上手くいかなかったときに、自分自身から断罪され責め立てられるのではなく、こんな風に思いやりを持って励ましてもらえるってすごい安心感があると思いませんか。
この安心感を、他者に求めるのではなく、自分自身で与えることができるのです。
いつでも。どこでも。

本書には他にも色々とヒントになることが書かれています。

直観には反するかもしれないが、ほとんど変えられないのが、自分自身の頭の中で起きていることである。


好ましくない思考や感情を意識的に抑制する能力について、心理学者たちが無数の研究を行なってきた。その結果は明白である。私たちにそのような能力はない。

↑これなんかもう笑っちゃうよね。

ひどい気分のとき、手っ取り早く自分を落ち着かせて慰めたいと思ったら、自分を優しくハグしましょう。(中略)身体的接触がオキシトシンの分泌を促し、安心感を生み、落ち込んだ感情を癒し、心血管系のストレスを軽減することは、研究によって指摘されています。

↑これは最初はちょっと照れくさくて恥ずかしく感じるけれど、やってみると確かにホッとして穏やかな気持ちが生まれてくる。
日常的に続けて習慣化したい。

本書に書かれているこういったヒントから自分で編み出した慰めの言葉の中で、特に気に入っているのが以下の二つ。
また必要になったとき思い出せるように書き残しておく。

「人間とはしばしば間違いを犯す不完全な生き物で、私もそんな不完全な人間の一人にすぎない」
「私は私の苦痛を消し去ることはできないけれど、苦痛を感じている自分を抱き締めることはできる」

あと、気付いたときにいつでも「今、私の健康と幸せのために、思いやりをもってできることはなんだろう?」と自分自身に問いかける習慣をつけるのもいいと思う。

セルフ・コンパッションを必要な時に必要なだけいつでも発動できるよう、脳内の思いやり回路を強化する方法として、仏教伝統の「慈愛の瞑想(一般的には慈悲の瞑想と言われることが多い)」が紹介されている。
これは自分の幸せを祈るところから始まり、次第に対象を拡大していって、最終的に生きとし生けるものの幸せを願う祈りの瞑想です。

YouTubeには様々なバージョンの誘導瞑想動画があって色々聞いてみたのだけれど、私はどうも「愛する人」というフレーズが入っていると「そんなものおらんわい」という拒否反応が出てしまって合わなかった。
コメントを見ると同じように感じている人も多いようだ。
逆に、涙があふれたという人もいるので合うものを選べばいいと思う。

私は日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老のバージョンが一番しっくりきた。
「自分」の次を「私の親しい生命」としているのがとてもいい。
「親しい」という緩やかさと、「生命」という範囲の広さがいい。
「愛する人」だと最愛のパートナーとか最愛の子供とかしかイメージできないのだけれど、「親しい生命」だったら、なんとなく一緒に暮らしている家族とか、たまにしか会わない友達とか、職場の同僚とか、近所の子供とか、部屋の観葉植物まで素直に対象に入ってくる。
そしてまた、そういう「何でもない」と思っていた対象により一層の「親しみ」を感じるようになるというおまけまでついてくる。

思いっきりコンパクトにまとめるとこんな感じ。

私が幸せでありますように。
私の親しい生命が幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
私の嫌いな生命が幸せでありますように。
私を嫌っている生命が幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。


嫌いな「生命」となっているのもいい。
嫌いな「人」だと具体的な顔が思い浮かんで嫌な気持ちになるのだけれど、「嫌いな生命」だとゴキブリとかが浮かぶので、嫌いな人の顔よりは拒否感が少ない。

そして私は今、スマナサーラ長老にハマって動画とか本を見まくっている。
心が弱っているとき、願望実現系とかについふらっと吸い寄せられてしまうことが度々あるけれど、結局真理って2000年以上前にブッダが解明していることなのかも、という結論にいつも戻ってくるのです。




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