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未成年 [本]

「未成年」 ドストエフスキー





工藤精一郎訳の新潮文庫版で読みました。
最後についている解説が佐藤優なのは思いがけなかったけど、案の定「こんなに神様神様いう奴は無神論者だ」とディスってて笑った。

さて、感想というほどの感想もなく、特別面白くもなくつまらなくもなく。
登場人物を把握して物語に入っていくのに少し難儀するけれど、物語の枠をおおむね把握できれば「えーどうなるのー」と野次馬根性で楽しめます。
ロシア人の名前がわかりにくいのと、主人公も他の登場人物もぐだぐだねちねちと鬱陶しいのはドストエフスキー作品を読むうえでの大前提なので今更言ってもしょうがない。むしろそれが醍醐味だったりする。

一言で言ってしまえば人間関係のドロドロです。
何かドラマチックな出来事が起きたりまさかの大どんでん返しがあったりするわけではありません。
それでもなんとなく面白いのが良い小説というものです、と誰かが言っていた気がする。

主人公の青臭くて短絡的ですぐ興奮する浅はかさと異常な自意識の高さにイラっとして全然共感できないけど、なんといっても「未成年」ですからね。それをこそ描いているのだから仕方ない。

この物語には重要な手紙が二通登場するのですが、最後まで尾を引く方の一通は物語の序盤にさらっと出てくるだけなので、読みながらずっと「この手紙ってどういう経緯でなんで主人公が持ってるんだ??」と思っていました。
読み終えてからそれについて書かれているところを探したけど見つけるのに苦労した。
こういう大事なことこそもっとわかりやすくねちねちと書いてよ、ドスちん!
そしてその記述を読んでもやっぱりこんな大事な手紙が主人公のような青臭い小僧に託された理由がわからん。
作者の都合以外。

私の中にこれといって強い印象を残す作品ではなかったけれど、思ったよりもすんなりと読了できたのはよかったです。
これでドストエフスキーの五大長編制覇!!
次は途中で投げ出してしまった「死の家の記録」に再挑戦しようかしら。




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破船 [本]

「破船」 吉村昭



この本のことを初めて知ったのは読売新聞の紹介記事だった。
カミュのペストとかと一緒にコロナ禍で読むべき本、みたいな感じで紹介されていたと記憶する。
話も不気味だけど何より表紙の絵が怖い、と強く印象に残っていた。

村人たちが食うや食わずの生活をしている僻地の貧しい漁村では、貴重な荷を積んだ船が座礁するのを「お船様」と呼んでその到来を待ち望んでいた。
しかし今度のお船様が運んできたのは恵みではなく疫病だった!

という話なんだけど、この疫病船がやってくるのって本当に最後の方なんだよね。
表紙からして不気味で、座礁船を「お船様」と呼ぶのも不気味で、常に死が近くにある寒村の生活もどことなく緊張感と不穏さを孕んでいて、何が起こるのか、どんな破局が訪れるのかと読み進めると、死体だけを積んだ船が流れ着く。死人はみんな赤い着物を身につけていた。そして船内には赤い猿の面。
だめー!それ絶対やばいやつーー!

お船様が実は疫病神だった、というのはほとんどオチみたいなものなので、知らずに読んだ方がハラハラして面白かったんじゃないかと思う。
でもこの情報がなかったら読まなかっただろうし。。
難しいね。




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WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方 [本]

「WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方 」
ジル・ボルト・テイラー



突然の脳出血により左脳の機能が停止した脳科学者が、自分の脳内で起こったことを内側から観察することで、私たちの脳内には「4つのキャラ」がいるということに気づきます。
そのキャラたちがチームとして協力し合えば心穏やかな人生が手に入る、というのが本書の内容です。

重度の脳出血に見舞われて左脳の機能が停止した著者は、生命の危機的状況であったにも関わらず、心安らかな幸福感と宇宙との一体感という涅槃のような境地にいたと言います。
自他の境界がなく、過去も未来もなく、言葉もない「今この瞬間」だけの世界。
やがて左脳の機能が少しずつ回復し、他者とのコミュニケーションや順序立てて物事を処理する能力を取り戻していきます。

私たちの脳内には、考える左脳、感じる左脳、感じる右脳、考える右脳という「4つのキャラ」が常に存在すると言います。
そして私たちはいつでも自分がどのキャラでいるかを選択できるのだと。

そのためには、まず自分の脳内にある4つのキャラを知る必要があります。
まとめるのは難しいのですが、ものすごく無理矢理まとめるとこんな感じ。

キャラ1<考える左脳>
言語、過去/未来、ルール、分析、細部、差異

キャラ2<感じる左脳>
恐怖、心配、不安、猜疑、優劣、正誤、利己

キャラ3<感じる右脳>
遊び、創造、開放、集団、信頼、今だけ

キャラ4<考える右脳>
大局、寛容、柔軟、思いやり、流れ

これだけだとよくわからないと思うので、詳しく知りたい場合は是非本書を読んでみてください。
作者は自分の脳内の4つのキャラに名前をつけて、それぞれの声を聞く「脳内会議」によって、脳の連携回路を強化することを勧めています。

内容の説明はこれくらいにして、読んで思ったことなどを。

まず、心安らかな幸福感と宇宙との一体感というまさに涅槃の境地が、そもそも私たちの脳内にすでに機能として存在しているということがものすごい希望に思えた。
ただ残念なことに、どうしたらそこにアクセスできるのかがわからない。
人為的に脳出血を起こすのはあまりにリスキーだ。
私としては仏教の「慈悲の瞑想」がこの回路を強化するものとして有効なのではないかと考えている。
セルフ・コンパッション」でも推奨されているし。

4つのキャラの中で一番わかりやすくほとんどの時間を支配しているのが<キャラ1>だと思う。
今こうしてブログを書いているのもそうだし、日々のルーティンやToDoリストをこなすのも、明日の予定を立てるのも、座りっぱなしじゃなくて少し歩いた方がいいと考えるのも<キャラ1>だ。
私の中の<キャラ1>は次々と仕事をこなすバリキャリ。

<キャラ2>もよく顔を出す。
自分と誰かを比較して落ち込んだり嫉妬したり、過去を思い出してくよくよしたり、未来に対して悲観的になったり、孤独を感じるときはこの<キャラ2>が叫んでいる。
寂しがり屋の傷付いた子供。

<キャラ3>はあまりピンとはこないのだけれど、誰かと一緒に夢中になっておしゃべりしていたり、お絵描きに没頭していたりするのはこのキャラなのだと思う。
もっと出て来てくれてもいいのに。

<キャラ4>はほとんど存在を感じられない。誰かに対して思いやりの気持ちを抱く時とかがそうなのかなぁ。私もこのキャラの領域である一体感と幸福感を体験してみたいものだ。

作者はどのキャラでいるかを私たちはいつでも選べるのだ、というけれど、ほとんど認識できていないキャラ3やキャラ4に切り替えるのって難しい。
まずは自分の脳内で今どのキャラが優勢になっているのかを認識するところからなのかもしれない。

どのキャラの声も無視したり排除したりせず、すべてのキャラの声を聞いて合意することが作者の言う「脳内会議」らしい。
私の脳内は<キャラ1>と<キャラ2>の声でほとんど満ちているのだけれど、いずれは右脳の<キャラ3><キャラ4>とも協力してWHOLE BRAINで心穏やかに生きていけるようになりたいものです。




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セルフ・コンパッション [本]

「セルフ・コンパッション[新訳版]」 クリスティン・ネフ



以前から気になっていたのだけれど、お値段がそれなり(kindle版で3,366円)なので気軽に手を出せないでいた本。
GW中に久々に辛いウツモードが発動して色々と対策を探していたところこの本の紹介を見て、ついに買って読んでみることにした。
結論から言うと、読んでよかったです。
全体的に冗長なのと、横書きが読みにくいという難点はあるものの、セルフ・コンパッションという概念と、それがいかに人生を楽に豊かにするために必要なものか、ということがよくわかった。

セルフ・コンパッションとは直訳すると「自分への思いやり」。
その核となる構成要素は以下の三つです。

・自分に優しくすること
・共通の人間性を認識すること
・マインドフルネス

これだけ見てもよくわからんですね。

例えば何か失敗をして落ち込んでいるとします。
私はまさにそのタイプなのですが、自分を責めて自己嫌悪に陥ります。
なんであんな失敗をしたんだ、もっと上手くやれたんじゃないか、ああすべきだったんじゃないか、自分はなんてダメなんだ、とくよくよして自分を責め立てます。
ますます嫌な気持ちになります。
何日も引きずります。

しかし、自分を責めることは百害あって一利なしだそうです。
ではどうするか。

まず、「自分に優しくすること」。
失敗して落ち込んでいる友達を、あなたは「なぜもっとうまくやらなかったのか、なんてダメな奴だ」と罵って責任を追及しますか?
しませんよね。
友達を励ますように、思いやりの気持ちをもって自分に接するのです。

次に「共通の人間性を認識すること」。
つまり、人間誰だって失敗するという当たり前のことを思い出すということです。
常に正解を選び続ける完璧な自分なんてあり得ないのです。

そして「マインドフルネス」。
今ここに集中してそれを受け入れること。
自分が失敗して落ち込んでいるという現実をそのまま受け止めて、良いとか悪いとか判断を下さない。何とかしようとしない。
特に思考ではなく自分が感じている苦痛を身体感覚として感じること。

以上を踏まえて、失敗して落ち込んでいる自分に対してセルフ・コンパッションを実践するとしたら、私だったらこんな感じにする。

まず、落ち込んでいる気持ち、恥ずかしい気持ち、後悔する気持ちなど、自分が今感じていることを、判断や評価を交えずに受け止める。
頭の中の思考よりも「胸が締め付けられる感じ」とか「胃がムカムカする感じ」といったように、身体感覚に注目する方がありのままを受け止めやすい。

続いて、そういった苦痛を感じている自分に対して思いやりの気持ちをもって声を掛ける。
例えばこんな感じ。

「辛いよね。わかるよ。でもそんなに責めなくてもいいんだよ。絶対に100%間違えない完璧な人間なんていないんだから。とはいえ、責める気持ちって勝手に沸いてくるよね。消そうと思って消えるもんじゃないよね。わかる。すごいわかる。だから責めちゃう自分を責める必要もないんだよ。だって自分にコントロールできることじゃないんだから」

上手くいかなかったときに、自分自身から断罪され責め立てられるのではなく、こんな風に思いやりを持って励ましてもらえるってすごい安心感があると思いませんか。
この安心感を、他者に求めるのではなく、自分自身で与えることができるのです。
いつでも。どこでも。

本書には他にも色々とヒントになることが書かれています。

直観には反するかもしれないが、ほとんど変えられないのが、自分自身の頭の中で起きていることである。


好ましくない思考や感情を意識的に抑制する能力について、心理学者たちが無数の研究を行なってきた。その結果は明白である。私たちにそのような能力はない。

↑これなんかもう笑っちゃうよね。

ひどい気分のとき、手っ取り早く自分を落ち着かせて慰めたいと思ったら、自分を優しくハグしましょう。(中略)身体的接触がオキシトシンの分泌を促し、安心感を生み、落ち込んだ感情を癒し、心血管系のストレスを軽減することは、研究によって指摘されています。

↑これは最初はちょっと照れくさくて恥ずかしく感じるけれど、やってみると確かにホッとして穏やかな気持ちが生まれてくる。
日常的に続けて習慣化したい。

本書に書かれているこういったヒントから自分で編み出した慰めの言葉の中で、特に気に入っているのが以下の二つ。
また必要になったとき思い出せるように書き残しておく。

「人間とはしばしば間違いを犯す不完全な生き物で、私もそんな不完全な人間の一人にすぎない」
「私は私の苦痛を消し去ることはできないけれど、苦痛を感じている自分を抱き締めることはできる」

あと、気付いたときにいつでも「今、私の健康と幸せのために、思いやりをもってできることはなんだろう?」と自分自身に問いかける習慣をつけるのもいいと思う。

セルフ・コンパッションを必要な時に必要なだけいつでも発動できるよう、脳内の思いやり回路を強化する方法として、仏教伝統の「慈愛の瞑想(一般的には慈悲の瞑想と言われることが多い)」が紹介されている。
これは自分の幸せを祈るところから始まり、次第に対象を拡大していって、最終的に生きとし生けるものの幸せを願う祈りの瞑想です。

YouTubeには様々なバージョンの誘導瞑想動画があって色々聞いてみたのだけれど、私はどうも「愛する人」というフレーズが入っていると「そんなものおらんわい」という拒否反応が出てしまって合わなかった。
コメントを見ると同じように感じている人も多いようだ。
逆に、涙があふれたという人もいるので合うものを選べばいいと思う。

私は日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老のバージョンが一番しっくりきた。
「自分」の次を「私の親しい生命」としているのがとてもいい。
「親しい」という緩やかさと、「生命」という範囲の広さがいい。
「愛する人」だと最愛のパートナーとか最愛の子供とかしかイメージできないのだけれど、「親しい生命」だったら、なんとなく一緒に暮らしている家族とか、たまにしか会わない友達とか、職場の同僚とか、近所の子供とか、部屋の観葉植物まで素直に対象に入ってくる。
そしてまた、そういう「何でもない」と思っていた対象により一層の「親しみ」を感じるようになるというおまけまでついてくる。

思いっきりコンパクトにまとめるとこんな感じ。

私が幸せでありますように。
私の親しい生命が幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
私の嫌いな生命が幸せでありますように。
私を嫌っている生命が幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。


嫌いな「生命」となっているのもいい。
嫌いな「人」だと具体的な顔が思い浮かんで嫌な気持ちになるのだけれど、「嫌いな生命」だとゴキブリとかが浮かぶので、嫌いな人の顔よりは拒否感が少ない。

そして私は今、スマナサーラ長老にハマって動画とか本を見まくっている。
心が弱っているとき、願望実現系とかについふらっと吸い寄せられてしまうことが度々あるけれど、結局真理って2000年以上前にブッダが解明していることなのかも、という結論にいつも戻ってくるのです。




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ただいまの積読本 [本]

本を長時間読めなくなりました。
そして長い文章を書けなくなってきました。
それによって日常生活に何か支障が出るわけではないのだけれど、以前できたことができなくなるのは寂しい。
これが老いというものか。
スマホとインターネットの弊害かもしれないけど。

定期的にブログを書きたいと思っているのだけれど、ほとんど本を読まなくなったし、旅行にも行っていないので書くことがない。
せめてただいまの積読本を紹介しようと思います。

IMG_1680.jpeg

上から順番に。

「仏教の思想9 生命の海<空海>」
メモによると読み始めたのは2016年8月17日らしい。
途中で数年の休止期間を挟んで、足掛け7年。
もう最初の頃に読んだところなんて覚えちゃいませんよ。
意地と義務感で読み続けているシリーズ、全12巻。

「苦海浄土」
藤原新也との対談本を読んだのをきっかけに、石牟礼道子の代表作であるこちらも読まねばと。
時代背景や地理など調べながら読んでいる。
少し前に偶然にも、アンモニア合成の技術によって窒素化合物を使った化学肥料が普及し、その結果人口が激増した、という話を聞いた。
これを知ったことで時代背景がより鮮明になって理解が深まった気がする。
水俣病を出したのは、日本が戦後の焼け野原から立ち上がり高度経済成長のさなか、まさにその窒素化合物を作っていた会社だった。
より豊かに、より多く。昨日より今日が、今日より明日が、より良くなっていくとみんなが信じていた時代。
環境問題や健康被害より豊かさ便利さが優先される時代。
そういう時代だった。
単純ではないことがわかる。

「ブレードランナーの未来世紀」
進撃の巨人の作者が師と仰ぐ映画評論家による80年代アメリカ映画の評論。
「ターミネタ―」とか超有名作品はやはり見ておくべきだと思った。
映画にしろアニメにしろ小説にしろ、多くの人との共通知識として知っておいた方が楽しいコンテンツってある。

「未成年」
上巻の三分の二くらいまで読んだ。
これを読み終わったらドストエフスキーの5大長編制覇となる。
相変わらず独白が暑苦しくてねちっこくてクセになる。

「破船」
コロナが出始めた頃に新聞の書評で紹介されていた。
表紙がとにかく怖い。

スマホ見てないで本読もう!





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「個人的に」気持ち悪い日本語 [本]

めっきり本を読まなくなりました。
まあボチボチとは読んでいるんですけど、せいぜい月に1冊読了くらいのペース。
長時間読んでいられなくてすぐ飽きてしまう。
注意散漫になっているとつくづく感じる。
これ絶対スマホとSNSのせいだと思う。

本を読む能力の衰えとともに、文章を書く力も衰えている気がしてならない。
それになんの問題があるのか、と言われると特に差し迫った危機はないのだけれど、何かがじわじわと崩壊していくような不安がある。

インターネットにあふれる吟味されていない今時の言葉を大量に読んでいると、だんだんそれが当たり前になってきて、今の私が「気持ち悪い」と感じる日本語もいずれは何とも思わなくなるのだろうか。

たとえば私はこういう文章を「気持ち悪い」と感じる。

「個人的にはBが好きですね」

「好き」というものは個人的な感覚以外の何物でもねーだろうが、と思う。
たぶん「好みは人それぞれで他の意見もあるだろうけど、あくまで自分の好みとしてはこれ」ということを強調したいのだろうけど、なんか気持ち悪い。
最近の日本語はこういう他者との対立を極端にさける傾向があるように感じる。

あと、「ですね」も気持ち悪い。
「ね」がいらん。
これもたぶん柔らかさを出すためのものなのだろう。

以上をふまえ、私が違和感なく読めるのは

「私が好きなのはBです」

になる。
今の世の中ではこういう文章はそっけない、冷たい、と思われてあまり推奨されないのだろうなぁ。

近頃本を読まなくなり、インターネットやSNSの垂れ流し文章ばかりを浴びるように摂取しているので、早晩なんとも思わなくなるのかもしれない。
スマホの魔力はおそろしい。
だらだらと画面を見ながら自分が本当にやりたいことはこれなのか?と自問すると「否」という答えが返ってきて、ああもういい加減にしようと思うのだけれど、またついスマホに手が伸びる。

せめてもの抵抗に中島敦や樋口一葉の小説を読み直したりするけれど、すぐに注意散漫になってまたスマホに手が伸びる。
げに恐ろしき魔力である。




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スキャナーに生きがいはない [本]

「スキャナーに生きがいはない」 コードウェイナー・スミス



久々にSFを読みました。
面白かった!
Twitterに脳をやられて長い文章が読めなくなっていたのだけれど、それなりの厚さの小説本を一冊読み切れたことが嬉しい。

説明なく頻出する造語の数々に???となりながらも、幻想的でどことなく退廃的で、神話のような雰囲気をもつ未来の物語の数々に魅了されます。
伊藤さんと浅倉さんのこなれた訳がまたいいんだよなぁ。

以前からSFのタイトルってシビれるほどカッコイイものが多いよな、と思っていたのだけれど、この短篇集のタイトルも読んでみたくなるようなものばかり。
私は特に「青をこころに、一、二と数えよ」が好き。
原題の"Think blue, Count Two"はもちろんのこと、伊藤さんの邦題が見事。

「スズダル中佐の犯罪と栄光」
話としては面白いんだけど、星の影響で男だけになった種族を、愛を知らないおぞましく醜悪な生き物として描くことは、現代のポリコレ的観点からは批判を受けるんじゃないかなぁ、と思う。
この作者は男女の愛をこの世で最も美しく崇高な原動力として描く傾向があって、そういうキリスト教的な押し付けがましさみたいなものを臭みとして感じてしまうところがちょっとある。

作者は本名をポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガーといって、極東政治を専門とする著名な政治学者にして軍人。孫文から中国名をもらったり、ケネディ大統領の顧問を務めるなど、政治史に名を残す人物ですが、作者の素性が明かされたのは亡くなった後のことだったそうです。

この「人類補完機構全短篇集」は全三巻なので、残り2冊もいずれ読んでみたいと思います。




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なみだふるはな [本]

「なみだふるはな」 石牟礼道子、藤原新也


「フクシマ」に強い危機感を覚える藤原新也が「ミナマタ」と寄り添ってきた石牟礼道子に会いに行った対談集。
2011年6月に行われた対談で、あの事故の直後ということもあり、10年経った今読むと少し大袈裟な感じがしなくもないが、その麻痺こそが危険なのかもしれないとも思う。
私もあの頃は「これから先どうなっちゃうんだろう。日本は、世界は、大丈夫なのか」と不安に思っていたけれど、2021年現在、世の中は良くも悪くもあまり変わっていなくて、代わりにコロナが来た。
先のことって本当にわからない。

冒頭の石牟礼さんの「花を奉る」という詩がとてもいい。
涙が出る。

石牟礼さんが語る、コンクリートで固められる前の海や野山の美しさと豊かさ。
そして水俣病患者の声。

「道子さん、私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうしてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。
 病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。
 知らんちゅうことがいちばんの罪ばい。人を憎めば憎んだぶんだけ苦しかもんなあ。許すち思うたら気の軽うなった。人ば憎めばわが身もきつかろうが。自分が変わらんことには人は変わらんと父にいわれよったがやっとわかってきた。うちは家族全部、水俣病にかかっとる。漁師じゃもんで」

教科書に載っている「水俣、公害病、チッソ」といった単語だけを頭に入れて知った気になっていることの愚かさ、恥ずかしさを思い知らされます。
何も知らない方がまだマシなんじゃないかとすら思う。

「苦海浄土」もぜひ読みたいのですが、積読本ばかりが増えてゆく。。。




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反応しない練習 [本]

「反応しない練習」草薙龍瞬



2015年に出版されたベストセラー本。
アマゾンの神にずいぶんとお勧めされて表紙は何度も見たけれど、ベストセラー本はクソが多いからな、とスルーしていた。

しばらく前にこちらの記事で「現代人は快と不快の反復横跳びで疲れきっている」というのを読んで、まさにこれ!と思ったのがきっかけだった。
私はどうしてもTwitterのことを考えてしまうのだけれど、楽しい情報で得られる快と、見たくないものが目に入る不快、いいねやコメントをもらって気持ち良くなる快と、数値化された評価によって落ち込む不快……
この反復横跳びで本当に疲弊していた。

この本が売れた背景には、私のようにあふれる情報と数字での評価に反応し続けて疲れた人がたくさんいるということがあるのだろうと思う。

「慢」という仏教用語は他の本でも読んだことがあって、それはほぼ「承認欲」と同義だということも知っていたのだけれど、この本の中で「自分の価値にこだわる心」と表現されているのが私にはとてもしっくりきた。
そう、私は「私の価値」というものに必要以上にこだわっていて、自分には価値があるのだ、ということを一生懸命に確認して証明したくて、それが自分を生きづらくさせている。

優越感と劣等感は表裏一体のもので、それが何に由来するかというと、この「自分の価値にこだわる心=慢」な訳です。
私は自己肯定感が低く劣等感の強い人間で、自分より優れている人、自分より恵まれている人、自分より幸せそうな人に対して激しく嫉妬するのだけれど、たぶん同じように自分より劣っている(ように見える)人に対して優越感を抱いているのだろう。
優越感というのは気持ちの良いものだけれど、それが気持ち良ければ良いほど、劣等感も強くなる。
だって根っこは同じ「慢」だから。
これは苦しいよね。優越感を追求すればするほど、劣等感も強くなるんだから。

苦しみや悩みは自分の心が無駄に「反応」することで生まれている、というのがこの本の趣旨です。
じゃあどうすれば反応しないでいられるようになるのか、ということを原始仏教の教えにもとづいて日々実践できる方法として提示してくれます。
もちろん、一朝一夕に変われるものではないけれど、こういう方法がある、楽になれる道がある、ということは心を軽くしてくれます。

私はよく過去の出来事を思い出して嫌〜な気分になるのだけれど、私の中で「ふと浮かんだ過去の出来事とそれに対して生じた感情は、意味のある重要なものだから、まともに向き合って戦わなければならない」と思い込んでいた節がある。
だからそのことをグルグル考えてこねくり回していつまでも抜け出せない。
でも、ブッダの教えによれば、今、目の前にあるわけではない記憶は「妄想」に過ぎない。
その「妄想」に心が反応して「慢」や「怒り」が生じている。
浮かんできた記憶に「これは妄想だ」と気づき、そこから生じる感情に「慢だな」「もっともっとという欲だ」「怒りだ」と気づくことで、反応する価値のないものだと手放せるようになる。

なかなか気づけずにグルグルしていることも多いけど、「あ、妄想に反応してた!」と気づけるようになってきた。
日々これ修行と思って練習あるのみ。

ただし、「心をコントロールしよう」と思うのではない。
著者曰く、「心は求めつづけるもの」「心というのは、何かに触れれば必ず反応するもの」であり、心は本来そういうものだと理解することで不思議な心境の変化が訪れ、「人生とはそういうもの」というもっと大きな肯定が可能になるとのこと。
これはなんとなくわかる。
「なんとかしよう」と思うと疲れるし、なんともならないんだけど、「こういうもの」と心得れば、良い意味での「諦め」のような心境になり、そういう力が抜けた状態だといつの間にかなんとかなってたりする。

同じ著者のこちらの本も参考になります。



好きなことをやろう、生きがいを見つけよう、夢に向かって進もう、人は幸せになるために生まれてきたのです、といったようなメッセージに疲れ切った私は以下の文章でとても気持ちが楽になった。

「元気が出なくても、生きがいがなくても、それはそれで「心にとってはフツー」だということです」

そして

「心の渇き・苦しみから抜けてみれば、自分には他に何も必要なかったのだ、とわかります。ただ生きていればいいーーそう思えるようになるのです」

なれるといいねぇ。


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生まれてきたことが苦しいあなたに [本]

「生まれてきたことが苦しいあなたに」 大谷崇



Amazonの神に勧められたんだったかなぁ。
私が買った時はレビューが数件程度だったんだけど、今見たら119件も入っていた。
どこかに書評でも載ったのかしらね。

本書のサブタイトルは「最強のペシミスト・シオランの思想」となっていて、フランスで活躍したルーマニア人思想家、エミール・シオランの思想を紹介したものです。
いつでも自殺してこの世を去ることができるということが人生の救いになるとか、怠惰はあらゆる行為の拒否であって悪に満ちたこの世においてこれ以上の善行はないとか、なるほど見事なペシミズムである。
この徹底した悲観主義、ポジティブさのかけらもない考え方にホッとして気が楽になるの、不思議よねぇ。

シオランの思想もさることながら、それに惹かれてルーマニアにまで留学してしまった著者もなかなかのペシミストで、その語り口が私のような捻くれ者には大変心地よい。
例えば、あとがきに書いてあるシオランと出会った頃の著者の回想。

「音楽を聴いても、ポジティブな歌詞が出てきたとたん、うるせえ死ねと思ってただちに消していた」

私はここを読んで「あなたのそういうところ好きよ」と笑ってしまったのだけれど、反対にめんどくさいやつ、と思う人もいるかもしれない。
そういう人には本書の面白さ、シオランの思想の面白さは全然理解できないだろうと思う。

「人生はむなしい」という言葉に、絶望や反発ではなく、ほのかな安らぎを感じる方はきっと面白く読めると思います。
少なくとも私はとても面白く読みました。

ところで、私にとってルーマニアというのはあまり馴染みのないよく知らない国で、私がかつて読んだ本で覚えているのは「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」と「ルーマニア・マンホール生活者たちの記録」くらい。
あとはドラキュラもルーマニアらしい。
そこにシオランが加わると、なかなかどうしてクセの強い顔ぶれだ。
西欧列強とロシアに挟まれて歴史に翻弄されてきた東欧の国々には、島国日本人にはわからないことがたくさんあるのだろうなぁ、と思います。



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