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東福寺展 [美術館/博物館]

マティス展の後はトーハクで開催中の東福寺展へ。

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会期ギリギリで平日とはいえGW期間中なので混んでいるかと覚悟して行きましたが、マティス展より空いていた。
午前中はもっと混んでいたと思う。

「遺偈」は高僧が亡くなる前に書いたものらしいのだけれど、なんかぱっと見の印象がアイドルグループの寄せ書きサインぽいなー、と思ってしまった。

「寒山・拾得図」は大体どれ見ても面白い。
得体の知れない笑みが何とも言えない。

目玉の一つは「五百羅漢図」。
14年かけた修復後の鮮やかな姿でお目見えです。
漫画風にアレンジした解説パネルが面白い。羅漢たちの表情が可愛い。

最期の〆は仏像が定番です。
私にとって十大弟子像、四天王像、金剛力士像(仁王像)はテッパン。
でも仏像鑑賞久しぶりすぎて危うく四天王に踏みつけられている邪気たちを見逃すところでした。
それぞれにポーズが違って表情豊かで面白いんだよね。
四天王はやっぱり広目天が好みだな。

仏像大好きなんだけど、最後の方になると疲れてしまって流し見になる傾向がある。
トーハク平成館の展示は巡回できるようになっているから、先に仏像エリアを見た方がよかったかも。
次回の教訓として覚えておきたい。

おまけの軽食と法隆寺宝物館前の眺め。

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暑くもなく寒くもなくとても爽やかで気持ち良かったです。




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マティス展 [美術館/博物館]

東京都美術館で開催中のマティス展に行ってきました。

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人はいっぱいいたけどまあ見られないほどではない。
一部撮影可のフロアがあります。

上の写真の絵は「豪奢、静寂、逸楽」という題で、ちぎり絵のようなモザイク画のようなタッチと明るい色合いが素敵。

「白とバラ色の頭部」

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顔を構成する線の切り方も薔薇っぽいのが面白い。
写真はポストカード。友達に送ろうと思います。

「夜の金魚鉢」

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こちらもポストカード。
今回展示されている絵の中ではこれが一番好きかな。

自画像何枚かあったけど私はこれが好き。

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女性の顔だとこれ。「コレット」さん。

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こちらの「赤の大きな室内」が一番人気の様子でした。

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ヴァンス礼拝堂は外観から祭服まで丸々手掛けた集大成。
マティスのこのテイストがそのまま形になったモダンな礼拝堂です。
機会があれば行ってみたい。

続いてトーハクで開催中の東福寺展へ。


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ただいまの積読本 [本]

本を長時間読めなくなりました。
そして長い文章を書けなくなってきました。
それによって日常生活に何か支障が出るわけではないのだけれど、以前できたことができなくなるのは寂しい。
これが老いというものか。
スマホとインターネットの弊害かもしれないけど。

定期的にブログを書きたいと思っているのだけれど、ほとんど本を読まなくなったし、旅行にも行っていないので書くことがない。
せめてただいまの積読本を紹介しようと思います。

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上から順番に。

「仏教の思想9 生命の海<空海>」
メモによると読み始めたのは2016年8月17日らしい。
途中で数年の休止期間を挟んで、足掛け7年。
もう最初の頃に読んだところなんて覚えちゃいませんよ。
意地と義務感で読み続けているシリーズ、全12巻。

「苦海浄土」
藤原新也との対談本を読んだのをきっかけに、石牟礼道子の代表作であるこちらも読まねばと。
時代背景や地理など調べながら読んでいる。
少し前に偶然にも、アンモニア合成の技術によって窒素化合物を使った化学肥料が普及し、その結果人口が激増した、という話を聞いた。
これを知ったことで時代背景がより鮮明になって理解が深まった気がする。
水俣病を出したのは、日本が戦後の焼け野原から立ち上がり高度経済成長のさなか、まさにその窒素化合物を作っていた会社だった。
より豊かに、より多く。昨日より今日が、今日より明日が、より良くなっていくとみんなが信じていた時代。
環境問題や健康被害より豊かさ便利さが優先される時代。
そういう時代だった。
単純ではないことがわかる。

「ブレードランナーの未来世紀」
進撃の巨人の作者が師と仰ぐ映画評論家による80年代アメリカ映画の評論。
「ターミネタ―」とか超有名作品はやはり見ておくべきだと思った。
映画にしろアニメにしろ小説にしろ、多くの人との共通知識として知っておいた方が楽しいコンテンツってある。

「未成年」
上巻の三分の二くらいまで読んだ。
これを読み終わったらドストエフスキーの5大長編制覇となる。
相変わらず独白が暑苦しくてねちっこくてクセになる。

「破船」
コロナが出始めた頃に新聞の書評で紹介されていた。
表紙がとにかく怖い。

スマホ見てないで本読もう!





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隣人を覗き見る [つぶやき]

マルクス・アウレリウスの「自省録」で一番好きな言葉がある。

隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮るものは、なんと多くの余暇を得ることであろう。目標に向かってまっしぐらに走り、わき見するな


SNSってまさにこの「隣人を覗き見る」行為だなぁ、と思う。
精神に良くない、とわかっているはずなのについTwitterを見てしまって、動揺したりショックを受けたり落ち込んだりして、こうなりゃ自棄だとさらにのめり込んで数時間費やしてしまうことがある。
ものすごく後悔する。
あの時間を読書やお絵描き練習にあてればもっと有意義な時間になったはずなのに……と思ったところで取り返しはつかない。

哲人皇帝の言葉を肝に銘じて「隣人を覗き見る」行為はほどほどにしようと思う。
でもほどほどって難しいから、一切見ないのが一番良いんだろうな。





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ピカソ展 [美術館/博物館]

国宝展の後は西洋美術館の「ピカソとその時代」へ。
少し並びましたが当日券ですぐ入れました。

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正直言って私は国宝展よりこっちの方が楽しかった。
そしてメインのピカソよりセザンヌ、マティス、クレーが良かった。
一部を除いて写真撮影可なのも嬉しい。

一番気に入ったのはこちら、セザンヌの「庭師ヴァリエの肖像」

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色の選び方と重ね方、塗るところ、塗らないところ、ゾクゾクするほど綺麗で何度も戻って見ました。
趣味のお絵描きの参考にしたい。

自分が鉛筆で模写やクロッキーをするので、鉛筆画や模写は特に興味を持って眺めてしまう。
ジャコメッティがセザンヌやレンブラントをラフに模写したものが面白かった。
特にクソ上手いということもなく普通なのがいい。

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クレーの作品は気に入ったものがいくつもあったけど「青の風景」が一番好き。

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クレーはタイトルもかっこいい。
「夢の都市」「知ること、沈黙すること、やり過ごすこと」「封印された女」などなど。

マティスの「家に住まう沈黙」はタイトルが意味深でいい。

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ピカソで一番心惹かれたのは「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」かなぁ。

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「30年と30秒」というピカソの逸話がある。
ピカソが街でファンの女性から絵を描いて欲しいと頼まれて、その場でささっと描いて代金として1万ドルを要求した。
30秒で描いた絵にそれは高すぎると驚く女性に、ピカソは「この絵を描けるようになるのに30年かかりましたよ」と答えたという。
本当にあったことなのかどうかわからないけれど、とても示唆的で好きなエピソードです。

お絵描き初心者の私が何時間も何日もかけてようやくなんとか見られる絵を描く一方で、サラサラっと30分くらいで素敵なイラストを描いてしまう人がいる。
羨ましいな、全然違うな、と思ってしまうのだけれど、その人はその30分のイラストを描けるようになるのに10年単位で絵を描き続けてきたのだと思うと、いい意味で諦めがついて、私は私で地道に絵の練習を続ければいいんだ、と思える。

あと、ピカソって福笑いみたいなキュビズムの印象が強いけど、10代の頃の絵って写実的でクッソ上手いんだよね。
伝統芸能もまずは型をきっちりと身につけて、その上で型を破っていく、と言われるけど、キュビズムもただ出鱈目に描いてるだけじゃないんだよなぁ。
まずは基本で堅固な土台を築くことが何事においても大事なのでしょうね。




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国宝展 [美術館/博物館]

「国宝 東京国立博物館のすべて」を観てきました。

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日時指定なので人数制限されているけどそれでもすごい人です。
コロナ前だったら入場3時間待ちとかになってたんじゃないかと思う。

屏風とか掛け軸の壁面展示はまあ見られるんだけど、巻物などのガラスケースに並べられたものは人垣の向こうに垣間見られる程度で、はなっから見るのを諦めてしまう。
トーハク収蔵品ならいずれは常設展で見られるだろう、と思うと、どうしても今見なければ!という熱意がなくなってしまう。

まさに宝刀がずらりと並んだ刀剣ゾーンもこれまた人だかりで、常設展でゆったりじっくり見たほうがいいなぁ、と思って一通り流し見するだけになってしまった。
観世正宗がライティングの具合なのか赤く光っていて血塗られた刀みたいになってたのが印象的だった。

その他、気になったものをいくつか。

屏風で一番気に入ったのは久隅守景の「納涼図屏風」
ヘチマ?の棚の下で親子三人くつろぐ姿が涼しげで良かった。

法隆寺献納宝物の中では「竜首水瓶」が気に入った。
優美な曲線と精巧な竜の装飾が見事。

大きな埴輪は「これぞ埴輪の見本!」という感じの立派なものでした。

国宝ばかりがずらりと並ぶ様は壮観だけど、展示品より人の頭の方をたくさん見た気がする。
ゲームコラボのクリアファイルがちょっと欲しかったけど、何十人も並ぶ会計を待つほどの情熱はなく、何も買わずに会場を後にしました。




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千両みかん [落語]

近頃は落語を聞きながらお絵描きするのが楽しいです。
落語は「言葉」なので仕事中や読書中に流しておくのには向かないのですが、お絵描きは言語野を使わないので邪魔になりません。

甥っ子や姪っ子が小さかった頃、静かに抱っこしているよりも、その場にいる誰かと話している方が寝付きやすいように感じた。
人の声の響きというのは時によってはうるさく感じるものだけれど、安心感や心地よさを感じさせるものでもあると思う。
ましてや名人と言われる人々の声の調子は聞いていて本当に気持ちいい。

圓生、志ん生、文楽、志ん朝、小三治あたりの定番の噺を聞くことが多いです。
同じネタでも噺家によって違うし、何度聞いても面白いものは面白い。

最近、誰のだったかは忘れましたが「千両みかん」を聞きました。
病みついた若旦那のために番頭さんが真夏の江戸でみかんを探しに行く話です。
みかん問屋の蔵でようやく見つけたたった一つのみかんは、お値段なんと千両。
それは高すぎると驚く番頭さんに、あなたも商売人ならわかるでしょう、とみかん問屋の番頭は言う。
真夏にみかんを求めてくる人は数年に一度、いや十年に一度くらいのものでしょう。
ですがそういうお客様の求めに応じるために、我々は毎年、蔵を一つ潰してまで、ほとんどが腐ってしまうみかんをこうして残しておくのです。千両は決して高いとは思いません、と。

余韻の残る絶妙なサゲまで本当に良くできたお話だな、と思います。
この動画にこんなコメントがついていた。

「話としては面白いけど、商売人だったら腐らせる前にみかんを売ると思う」

おまえは番頭さんの話の何を聞いていたのだ、と驚いてしまった。
スマホの画面上で展開される短文のやりとりばかり見ていたら、私もいずれは落語が理解できなくなってしまうのかもしれない。
時代の流れとしてそれはそれで適応できているということなのだろうけれど、なんとなく恐怖と寂しさを感じる。

ということで、ささやかな抵抗のひとつとしてブログも定期的に書き続けていこうと思いました。




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「個人的に」気持ち悪い日本語 [本]

めっきり本を読まなくなりました。
まあボチボチとは読んでいるんですけど、せいぜい月に1冊読了くらいのペース。
長時間読んでいられなくてすぐ飽きてしまう。
注意散漫になっているとつくづく感じる。
これ絶対スマホとSNSのせいだと思う。

本を読む能力の衰えとともに、文章を書く力も衰えている気がしてならない。
それになんの問題があるのか、と言われると特に差し迫った危機はないのだけれど、何かがじわじわと崩壊していくような不安がある。

インターネットにあふれる吟味されていない今時の言葉を大量に読んでいると、だんだんそれが当たり前になってきて、今の私が「気持ち悪い」と感じる日本語もいずれは何とも思わなくなるのだろうか。

たとえば私はこういう文章を「気持ち悪い」と感じる。

「個人的にはBが好きですね」

「好き」というものは個人的な感覚以外の何物でもねーだろうが、と思う。
たぶん「好みは人それぞれで他の意見もあるだろうけど、あくまで自分の好みとしてはこれ」ということを強調したいのだろうけど、なんか気持ち悪い。
最近の日本語はこういう他者との対立を極端にさける傾向があるように感じる。

あと、「ですね」も気持ち悪い。
「ね」がいらん。
これもたぶん柔らかさを出すためのものなのだろう。

以上をふまえ、私が違和感なく読めるのは

「私が好きなのはBです」

になる。
今の世の中ではこういう文章はそっけない、冷たい、と思われてあまり推奨されないのだろうなぁ。

近頃本を読まなくなり、インターネットやSNSの垂れ流し文章ばかりを浴びるように摂取しているので、早晩なんとも思わなくなるのかもしれない。
スマホの魔力はおそろしい。
だらだらと画面を見ながら自分が本当にやりたいことはこれなのか?と自問すると「否」という答えが返ってきて、ああもういい加減にしようと思うのだけれど、またついスマホに手が伸びる。

せめてもの抵抗に中島敦や樋口一葉の小説を読み直したりするけれど、すぐに注意散漫になってまたスマホに手が伸びる。
げに恐ろしき魔力である。




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雲雀を探せ [日記]

この時期、散歩の途中で雲雀の姿を探すのが好きだ。
ずっと上の方でピリピリピリリリと細かいさえずりが聞こえたら、そこに雲雀がいる。
声を頼りに見当をつけて上空を見渡すけれど、空のうんと高いところにいるので容易には見つからない。
それでもさえずりはずっと聞こえてくる。
どこだどこだ。
辛抱強く探し続けていると、空の中に黒い小さな点が細かく揺れているのが不意に目に入る。
お前、そこにいたのかー。
この瞬間がとても楽しい。

しばらくホバリングしながらさえずっていた雲雀はやがて地上に降りてくる。
この時になってようやく場所がわかることも多い。

雲雀は開けた草地を好む。
雀より一回り大きい程度の小さな体でも、背の低い草地では姿が丸見えだったりする。
それなのに、地上でもさえずり続けていたりして、お前、そんなに無防備で野生の生き物として大丈夫なのか、と心配になる。

私が雲雀のさえずりと姿をそれと認識できるようになったのはここ10年くらいのことだ。
何がきっかけだったかよく覚えていないのだけれど、大学生の頃に読んだ「春琴抄」が頭の中にあったからだというのはたしかだ。

盲目の佳人、春琴が雲雀を空高くに舞い上がらせてそのさえずりを楽しむ場面がある。
それが「雲雀」という鳥であることすらうろ覚えだったけれど、ある時、上空から聞こえるさえずりに耳を傾け、足を止めて姿を探した、それが私が本当に雲雀を認識した始まりだったような気がする。

雲雀はずっと身近にいて、春になると毎年さえずっていたのに、私には見えていなかった。聞こえていなかった。
あるのに、ないも同然だった。
そういうこと、他にもいっぱいいっぱいあるんだろうなぁ。





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はないちもんめ [つぶやき]

子供の頃にやった「花いちもんめ」という遊びは実に残酷な遊びだと思う。

「あの子が欲しい」
「あの子じゃわからん」
「この子が欲しい」
「この子じゃわからん」
「相談しましょ」
「そうしましょ」

『決~まった』

「○○ちゃんが欲しい」
「○○ちゃんが欲しい」

『じゃんけんぽん』

大抵の場合、私が指名されるのは最後から二番目、三番目くらいだった。
最後まで残ることもないが、真っ先に指名されることなどまずない。
集団の中での自分の評価を白日の下に晒される厳しい遊びだと今にして思うけれど、当時は当たり前の遊びとしてよくやっていた。
よくやっていたけれど、苦手だった。

子供だから「たまには○○ちゃんを」なんて配慮することもなく、正直な本音がこの順番に出てくるのだから恐ろしい。
自分だって大して欲しがってもらえないくせに、いつも最後まで残ってしまうような子を「ああはなりたくない」と見ていたりもした。
人から好かれないと、人から欲されないと、たった一人残ってしまうよ、という恐怖をこの遊びで植え付けられてしまったような気がする。

SNSが出てくるずっと以前から、他者からの「いいね」に人は支配されているのかもしれない。







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