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隣人を覗き見る [つぶやき]

マルクス・アウレリウスの「自省録」で一番好きな言葉がある。

隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔であるように慮るものは、なんと多くの余暇を得ることであろう。目標に向かってまっしぐらに走り、わき見するな


SNSってまさにこの「隣人を覗き見る」行為だなぁ、と思う。
精神に良くない、とわかっているはずなのについTwitterを見てしまって、動揺したりショックを受けたり落ち込んだりして、こうなりゃ自棄だとさらにのめり込んで数時間費やしてしまうことがある。
ものすごく後悔する。
あの時間を読書やお絵描き練習にあてればもっと有意義な時間になったはずなのに……と思ったところで取り返しはつかない。

哲人皇帝の言葉を肝に銘じて「隣人を覗き見る」行為はほどほどにしようと思う。
でもほどほどって難しいから、一切見ないのが一番良いんだろうな。





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はないちもんめ [つぶやき]

子供の頃にやった「花いちもんめ」という遊びは実に残酷な遊びだと思う。

「あの子が欲しい」
「あの子じゃわからん」
「この子が欲しい」
「この子じゃわからん」
「相談しましょ」
「そうしましょ」

『決~まった』

「○○ちゃんが欲しい」
「○○ちゃんが欲しい」

『じゃんけんぽん』

大抵の場合、私が指名されるのは最後から二番目、三番目くらいだった。
最後まで残ることもないが、真っ先に指名されることなどまずない。
集団の中での自分の評価を白日の下に晒される厳しい遊びだと今にして思うけれど、当時は当たり前の遊びとしてよくやっていた。
よくやっていたけれど、苦手だった。

子供だから「たまには○○ちゃんを」なんて配慮することもなく、正直な本音がこの順番に出てくるのだから恐ろしい。
自分だって大して欲しがってもらえないくせに、いつも最後まで残ってしまうような子を「ああはなりたくない」と見ていたりもした。
人から好かれないと、人から欲されないと、たった一人残ってしまうよ、という恐怖をこの遊びで植え付けられてしまったような気がする。

SNSが出てくるずっと以前から、他者からの「いいね」に人は支配されているのかもしれない。







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口臭が気にならなくなった [つぶやき]

2、3年前から自分の口臭が気になり始めた。
歯磨きしてもなんか口の中が臭い時がある。
歳をとるってこういうことなんだなぁ、と思ってほとんど諦めていた。

ところで、少し前に「白髪をなくすには頭部の血流を良くすること。それには咀嚼が効果的」という主旨の動画を見て素直にガムを噛み始めた。
キシリトール入りなら歯にも良さそうだしね。
するといつの間にか口臭が気にならなくなっていた。
一番ひどかった寝起きの口の中も以前よりずっとスッキリしている。
これはおそらくガムに含まれる成分や香料が臭いを抑えているのではなくて、唾液量が増えたからではないかと推測している。

期待していなかった効果に喜んでいるのだけれど、白髪への効果は今のところ全く見られない。




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時代に取り残される [つぶやき]

私がいつもお絵描き講座でお世話になっているイラストレーター二人+もう一人、の計三人によるプロイラストレータートークラジオをYoutubeで聞いた。

その中で、絵描きのSNS戦略というテーマがあって、今時はアーティストといえどもマーケティングとブランディングが必要なのだなぁ、としみじみ思った。

Twitterは利用者が高齢化している、というのはたぶんその通りだと思う。
だから、今の若い人たちがどんなことを楽しいと思うのかを知るためにTikTokやインスタもチェックしているのだとか。
さらにClubhouseやSpacesといった音声SNSもどんどん活用しないともったいない、とも言われていた。
絵だけでやっていくのではなく、自分自身をコンテンツ化していく、とか。

これらはフリーでプロとしてやっていくためのSNS戦略で、そういうの目指していない人間にとっては本来無関係なんだけれども、なんだかこういうのを聞いていると、自分もやらなきゃ時代に取り残されるんじゃないかという焦りがわいてくる。

たまたまその前日に「時代の先を読んでひとつのことだけでなく分野をまたいで色々やってどんどん変化していかねば生き残れない」みたいなメッセージをうっかり見てしまったこともあって、新しいことに常にアンテナをはってどんどん試していかないと置いて行かれる、みたいな気分になってしまった。

なんか、しんどいよね。。。
なんとなく生きてるだけじゃ、ダメなんですかねぇ。。。

もちろん、そういうの好きな人、苦じゃない人はどんどんやったらいいと思うし、アーティストと言えども「ビジネス」なわけで、必要な人は割り切ってやるしかないと思う。

ツイッターですらあっぷあっぷしてブログに先祖返りした私のような人間は、TikTokやインスタもチェックして、ClubhouseやSpacesも積極的に取り入れるとか、考えただけで疲れてしまう。
もう情報いらない。いらないのよ。
でもそれじゃ時代に取り残されるぜって言われると焦ってしまうハンパものなのよ。

こんなときは原始仏教や老荘思想に関するものを読むと落ち着きます。




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ダブルバインド [つぶやき]

この状況下でもオタク向けコラボイベントなどは開催されていて、みなさん是非いらしてください、というようなお知らせが流れてくる。
遠いし、ぼっちだし、この状況だし、行きたくても行けないのだけれど、イベントの内容などを見ると、いいなぁ、楽しそうだなぁ、行きたいなぁ、と思う。
焦りのようなものすら感じることがある。

とにかく移動しないでください、いつも一緒にいる人たち以外との接触は避けてください、というメッセージを受け取る一方で、こんな楽しいことをやっています、ぜひ遊びに来てください、というメッセージを同時に受け取る。

同時に二つの矛盾したメッセージを受け取ることはダブルバインドと言って、大きなストレスとなり精神にダメージを与える。
まさにこの状態だなぁ、と思う。
単純な「自粛疲れ」だけでなく、このダブルバインド状態が私たちのメンタルを削っているような気がしてならない。

商売している方は死活問題だからお客さんに来てもらって利益を上げないといけないわけで、宣伝するのは当然のこと。
これだけ長引くと「今だけの辛抱」ではなくなってくるので、延期や中止はせずに感染症対策を徹底した上での開催、となる。
楽しいことがあるなら行きたくなるのがこれまた人情で、行ける人は行く。
それを見て、「私は行きたくても行けない」とこれまたストレスを感じる人が出てくる。

どこかにすべての罪を背負うべき悪者がいるわけではないのだけれど、あまり良い流れではないなぁ、と感じる。
じゃあどうすればいいかって、私にそんな妙案があればこんな社内ニートなどしていない。

せいぜいできるのはダブルバインドで消耗しないようにできるだけ情報を制限して自衛することくらいじゃないかしらねぇ。



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データに支配される [つぶやき]

長年お世話になっているEvernoteに別れを告げることにした。
大変便利に使わせてもらっていて、年間2000〜3000円程度だったら十分払う価値はあると思っていたのだけれど、8月末で期限が切れた後は年額5800円になってしまって、そこまでの価値はないと判断した。
Evernoteはどんどん高機能化・高価格化していって、私のようなライトユーザーには使いづらくなっている。
巨大資本以外を応援したい気持ちはあるのだけれど、もはや見限ることにした。

さて、見限ると決めたものの、移行先が見つからない。
いくつか試してみた私の全敗記録。

OneNote
インポートがエラーになる。
単純に文章を入力したいだけなので、ブロックという概念が使いづらい。

Notion
インポートがエラーになる。
テキストコピーが一行ごとって私にはめちゃくちゃ使いづらいんだけど、なんでこれ人気あるの??

Apple純正メモアプリ
インポートがエラーになる。
同期がクソ。

色々試してみてわかったんだけど、やっぱりEvernoteってよくできてる。
単純なテキストの入力も快適だし、写真やエクセルなどなんでも貼り付けられる。
同期も早い。
でも年額5800円は高いのよぉ。。。

Evernoteのデータを移行することはあきらめて、とりあえず以下で運用してみることにした。

単純なテキストメモ → SimpleNote
Webクリップや写真付きメモ → Google Keep
後で参照する可能性がある記録 → Evernote(無料版)

あっちこっちに情報が分散するのは面倒と言えば面倒かもしれないが、リスク分散と言えばそうとも言える。
どのサービスがいつ終わるのかわからないので、本当に大事なデータ(私の場合は読書ノートをスキャンしたPDFとか)は何重にもバックアップを取っておいたほうがいい。
最近、USBメモリが突然認識されなくなって泣く泣くデータをあきらめた父の姿を見たこともあり、バックアップの重要さを痛感している。

ところで、このとりあえずの結論に達するまで悪戦苦闘すること、おそらく計6時間。
徒労感の中で、私は思った。
自分で溜め込んだデータに、自ら支配されていないだろうか。
これまでも大量の音楽データや写真データの管理に頭を悩ませ、かなりの時間をかけてきた。
しかし冷静に振り返ってみると、その労力を費やして移行したデータを、私は活用しているだろうか?

せっせとCDから取り込んだ音楽データを聞くことはもうない。
Spotifyで聞いた方が断然楽ちんだ。
カメラロールには二度と見返すことのない写真データが大量に溜まっている。

重要なデジタル情報というのは、実はそう多くはない。
写真データの9割はゴミだ。
Evernoteに溜め込んだ情報の9割もゴミだ。
おそらく過去のメールの99.9%はゴミだ

私はicloudに月130円を支払い、Evernoteに昨年3120円を支払った。
大した金額ではないが、なんのために払っているのかというと、ゴミのために払っている。
そのことに気づいてしまった。

世界中の人間が日々膨大な量のゴミデータを作り、記録し続けている。
いつか宇宙はデータで埋まってしまうのではないだろうか。
量子コンピュータが実現すればごく小さな物質の中に大量のデータを保存できるらしいけど、それが実現する頃にはさらに大量のゴミデータを保存するようになっている気がする。
例えば、地球上の全地点におけるある瞬間の風向きと風力をごく細かいフレームで全記録するとか。
ある人間を構成する物質を元素の電子配置まで正確に記録を取り続けるとか。

いや、そもそもこの宇宙はすべて情報でできている、という理論もあるらしいけど。
なんだか気が遠くなってくる。

とにかく、ゴミにこれ以上かかずらうのはやめることにした。



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数字アレルギー [つぶやき]

数学が苦手、という話ではない。
いやまあ、数学も苦手だったけど。

この記事にも書いたように、オリンピック自体にはさほど興味がないのだけれど、クロッキーのモデルとしてインターネット配信を活用させてもらっている。
いやぁ、ビーチバレーとかサーフィンとか、おねぇちゃんたちがほとんどお尻丸出し状態でプリプリさせてるのすごいねぇ。
競技じゃなくてプリプリのために見てる人いっぱいいそう。
ちなみに私は女子バレーボール選手のスタイルに憧れる。

インターネット配信はgorin.jpのお世話になっているのだけれど、そのホーム画面の一番上に日本が獲得したメダルの数が表示されている。
これを見るたびに、なんだか嫌~な気分になる。

二次創作Twitterのせいですっかり数字アレルギーになってしまった私。
「数を競う」ことにほとほと嫌気がさしている。
金メダルにも銀メダルにも銅メダルにも、4位にも5位にもビリっけつにも、それぞれにドラマがあるのに、金○個、銀○個、銅○個、という数字に集約されてしまうことの乱暴さよ。
でも、たしかに数字のわかりやすさ、便利さというのはあって、それも理解できる。
ただ、わかりやすいからこその怖さもあるわけで。

そもそも国対抗のオリンピックのシステム自体があんまり好きになれなかったりもする。
それでメダルの数を競ったって、そんなのほとんど国力に比例するに決まってるじゃないか。
大国の威信をかけて?
ふうん……馬鹿馬鹿しい。

アスリート一人一人にとってはすべてをかけたチャレンジだったりもするだろうし、そのひとつひとつの物語は美しいと思うのだけれど、メダル取った途端に注目されるとか、数を競うとか、そういうのが好きになれない。

ともあれ、アスリートの身体や動きは男子も女子もとても美しいので、純粋にそれを眺めて一生懸命クロッキーでとらえようとするのはとても楽しいです。



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コロナ下の生活は思いがけず幸せだった [つぶやき]

昨日、東京を含めて緊急事態宣言の全面解除が決定した。
社会全体にとっては喜ばしいことだと思うけれど、私は少し寂しかった。
なぜなら、コロナ下のひきこもり自粛生活で私はとても幸せを感じていたからだ。

なんといっても在宅勤務の快適さを知ってしまった。
往復90分の車通勤は、思っていた以上に私にストレスを与えていた。
背後にぴったりくっつく後続車、方向指示器を出さない車、トンネル内でライトを点灯させない車。
そういったものにイライラし、そういうものにイチイチ反応している自分の不寛容さに嫌気する、そんな朝が、庭のシャクヤクを切って部屋に飾る朝に代わった。

嫌いな人の声や物音にストレスをためる勤務時間が、お気に入りの音楽をかけて集中する時間に代わった。

仕事をしているふりをしてただダラダラとインターネットを見て過ごす待機時間が、堂々と本を読む時間に代わった。

上司に合わせていた室温が、自分の適温に代わった。

閉塞感ある仕事場が、空と揺れる大樹の見える仕事場に代わった。

私の仕事は90パーセント以上がPC上の作業で、リモートデスクトップ接続さえあればどこでも問題なく仕事ができることがわかってしまった。
一部、紙ベースのアナログな業務はあるものの、それは週に1度出勤すれば十分対応できる。

デメリットが一切見出せない。
仕事仲間との交流? 連帯感?
そういうものを求める人が一定数いることは理解している。
しかし、私はそういうものがなくても別に不都合を感じないし、孤独を感じないことが確認された。

仕事だけではない。
9連休も、その他の週末も、どこにも遊びに行かない休日を2か月近く続けているけれど、全然飽きない。
むしろ自分は今まで純粋に「行きたい」と思って外出していたというよりも、「外に出なきゃ」という義務感に駆られて出掛けていたのではないかという気すらしてくる。

コロナ前は家にいる休日を居心地悪く感じて「どこかに出かけなきゃ」「世界を広げなきゃ」「なにか新しいものを体験しなきゃ」「刺激を受けなきゃ」「人と会わなきゃ」と焦燥感に駆られていた。
ところが外出しないことが「やるべきこと」になったコロナ下の自粛生活では、これらのプレッシャーが一切なくなり、何の罪悪感も焦燥感もなく心ゆくまでひきこもり生活を楽しむことができた。
どこにも出かけず、ひたすらdアニメとpixivに時間を費やし、twitterで流れてきたレシピで作ったご飯を食べ、咲き誇る庭のシャクヤクを眺めていた9連休、はっきり言って私は幸福だった。

見たかった美術展に行けなかったり、楽しみにしていた舞台が中止になったということはあったけれど、そもそもやっていないと、あまり悔しいとも残念とも思わないことを知った。

現代の消費社会において、消費者の「欲しい」という欲求は、「商品」を提供されることによって創出される、というようなことを以前に何かで見たけれど、まさにそれだと思った。
iPhoneのようなものを消費者が欲っしたからiPhoneが作られたのではなく、iPhoneが出てきてはじめて、人々はそれを「欲しい」と思った。
美術展が開催されるから、行きたいと思う。
舞台公演が開催されるから、観たいと思う。
なければ、それに対する欲求は存在しない。

自分がいかに消費を煽られていたかを思い知る。
そしてそれに疲れていたことも。
一方で、その煽られた消費によって経済は回っているわけで、社会で暮らす以上、私もその恩恵を受ける一人であり、そこにはジレンマがある。

しかし、ほとんど移動せず、消費せず、人と会わなかったひきこもり自粛生活が、今までになく私の心に安らぎをもたらしてくれたことは確かなのだ。

テレビなどの報道では、夫の在宅勤務にストレスをためる妻や、子供がいる家での仕事の困難を訴えるママさんなどをよく目にする。
大変だなぁ、と思う。
しかし、私が直接、あるいは人づてに聞いた話では、働くママさんも含めて「在宅勤務快適だからずっと続けたい」という声が圧倒的に多い。
なぜそういう声はほとんど報道されないのだろう?
ある調査では7割の人が在宅勤務を今後も続けたいと答えているそうなのだが。

同じく「自粛疲れ」という言葉も街の人々のインタビューなどでよく耳にするけれど、私の周りでは「別にこれと言って不便は感じない」や「むしろ大っぴらにひきこもれて楽」という声が多い。
どうも報道される印象と私の実感には乖離がある。

会社勤めが当たり前になったのは高度経済成長期以降でしょうか?
よくわかりませんけれども、それ以前は長いことほとんどの日本人が職住近接だったわけで、はて、豊かさとはなんであろうか? ゆとりとはなんであろうか? と考えてしまう。
そして今、モノや娯楽が溢れた社会で、私は消費疲れを感じている。

新型コロナウイルスが社会にもたらした影響に、シヴァ神を連想する。
インドの破壊と創造の神だ。
洪水の後に豊かな土壌が残るように、コロナ後の社会が以前よりも生きやすい社会になってくれることを祈っている。

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twitterで流れてくる情報を見て思うこと [つぶやき]

ワタクシとても他人の言動に影響を受けやすいのであんまりwebとかSNSとか見ないように心掛けているのですけど、なんかちょっと時間や心に空白ができるとやっぱり見てしまうわけです。
そうすると、いわゆるインフルエンサーと言われる人々の言葉なんかも目に入ってくるわけで、全くその通りだなぁ、自分はこんなんじゃダメだなぁと思って落ち込んだりするわけです。
しばし落ち込んだ後で、老荘思想とか原始仏教の教えをふと思い出して、そんなに向上心持たなくてもいいのかもしれないなぁと思い、いやいや、今の時代はブッダよりインフルエンサーのいう通りにした方が幸せになれるのかもしれん、という気もしてきてわからなくなってきます。

毎日職場でつまらないなーと思っているよりインフルエンサーとしてブイブイ言わせている方が断然楽しそうだけど、その人たちにはその人たちなりの苦労もあるのかもしれんなぁ、と思ったり。
組織に搾取されるのと、インフルエンサーの信者になるのと、構造は同じなんじゃないかという気もしたり。
いや、全然違うって言われそうだけど。

ワタクシ小心者なので当該ツイートをリツイートしてtwitter上で発言することは控えますが、例えばとあるインフルエンサーは以下のような趣旨の発言をしていました。

 嫌われることを恐れていたら何もできない。
 全員に好かれるなんて無理。
 あのガンジーだって最後は殺されてるからね。

全くその通りだと思います。
そしてたくさんの賛同の声がついていて、特に最後の一行が心に刺さったとか、ここでガンジーを出すあたり天才だ、とか絶賛の嵐なわけですが、私にはむしろガンジーは逆効果でした。
「見知らぬ人からよくわからん恨みを買って殺されるくらいなら平凡でいい」
と思ったわけです。
おそらくインフルエンサーに言わせれば、奴隷の思考であり、家畜の思考であります。
そうかもしれません。

もうひとつ、これはおそらくインフルエンサーではないんですが。

 ニートとか海外放浪とか、経歴に空白がある人の方がしなやか。
 順風満帆に人生進んできた人はちょっとしたことでぽきっと折れちゃう。
 経歴の空白はもっと評価されるべき。

私自身、1年近い無職期間があるので諸手を挙げて賛成です。
賛成ではあるんですが、空白期間があるからと言ってその後に能力を発揮できるとは限らず、挫折を知らないからと言って折れてしまうとは限りません。
人生の序盤で波に乗れず、折り返し地点に差し掛かろうとしている現在もいまいちパッとせず、ぽきっと折れることはないかもしれないけれど、おそらくこうしてパッとしないまま生涯を終えていくと推測される我が人生と、若いころ波に乗って人生を軌道に乗せて、中盤以降でなんらかのトラブルが発生するリスクはあっても確率的には穏当に過ぎていくであろう人生と、どちらがいいかと言えば後者じゃないかなぁ、と思うわけです。
苦労をバネにその後の人生を花咲かせる人もいるでしょうけど、苦労しただけで特にいいこともなく終わる人や、一生苦労らしい苦労を知らずにお花畑の中で生涯を終える人もいるのが現実です。

私の今の心境としては、インフルエンサーになりたいとは思わないけれど、不労所得でそこそこの生活ができる資産家になりたいなぁ、とは思います。
あなたはどう思いますか。



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コンビニ店員 [つぶやき]

数年前、近くに新しいコンビニができた。
開店当初から働いている店員さんで、気になる若者がいる。
おそらく20代、せいぜい30過ぎ。
開店当初はガリガリに痩せていて、おどおどした口調がなんだか「元ひきこもり」っぽい印象だった。
ちょっと心配になるような、応援したくなるような、そんな感じ。

お兄ちゃんは次第に仕事に慣れていって、やがて大きな声を出して手際よく仕事するようになっていて、その姿を見かけるとなんだか安心した。
先日、久しぶりにそのコンビニへ行ったらやっぱり元気に働いていて、おどおどした感じはまったくなくて自信をもって働いているように見えた。
そしてガリガリだった体はだいぶ肉がついていた。
生活の充実によるものか、コンビニ弁当の食べ過ぎなのかはわからない。

お兄ちゃんは近所の安アパートに住んでいるらしい。
母がなぜそれを知っているのかは不明だ。
今朝、そのアパートの付近でお兄ちゃんが人待ち顔で立っていた。
すぐに友達と思しき若者がやってきて、その車に乗り込む。
そしてコンビニの手前でコンビニとは違う方向へ曲がっていった。

休みの日には友達と遊びに行ったりするんだなぁ、となんだかほっこりしたのでした。

……余計なお世話だね。


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